現在、肉や魚などの生鮮食料品を保存する場合に使われているのがポリエチレンと呼ばれるビニール材料による物が大半ですが、昔は竹の皮でおにぎりや魚を包み持ち運んでいました。
 弘化元年(1844年)頃から関東一円で竹が枯れはじめ、食料品の持ち運びに使われていた竹の皮がなくなりました。
 滑川町に住んでいた宮嶋勘左衛門は、江戸幕府の作業場で働く機会を得、身に着けた新しい技術を活かし附木(松などを薄く削って先端に硫黄を着けた点火剤)を作っていましたが、竹の皮が品薄になった事を受け代替品の模索を始めました。そして、附木の作成から、附木の材料となる松の木を、より薄く、そして幅広く削れば竹の皮のように使えるはずと枇木作りに取り掛かかりました。試行錯誤を繰り返し、4年の歳月を費やした後ついに松の木を薄く削る方法を完成させる事ができました。
カンナを台に固定し、その上に原料となる松の木を突くようにすべらせ、薄く、幅広く削るというものでした。枇木を作るには、3人の人手が必要でした。材料の松の木を押す「ハナヅキ」、突く時の舵取りとカンナの刃の出具合を調整する重要な役目の「ナカヅキ」、籠に溜まった枇 木を手前にかき寄せる「カキテ」の3人です。
 原料の赤松は町内に樹生しており、里山管理の一貫として手に入りやすい状況、農作業が 暇になる冬の間の副業として村中(当時は滑川村)に広まりました。
 しかし皮肉にも、道具が完成した頃から再び竹が元気を取り戻し、竹の皮が市場に出回るようになり、枇木の需要が落ち込んでいきました。勘左衛門の没後(1868年)枇木は、通気性に優れる枇木の良さがようやく世間に認められるようになり、竹の皮に代わる包装 材として生鮮食料品やおむすび等に使われるよ うになり、需要が大きく伸びました。
 明治・大正・昭和にかけて枇木づくりは、滑川村の地場産業にまで発展しましたが、昭和 30年代に入り現在主流となっているポリ袋などの化学製品の普及により、再び需要が減っていきました。近年、環境への関心が高まりにより、「地球に優しい素材」として、枇木 が改めて見直されています。


  • 枇木作りの様子

  • 枇木とおにぎり

 当地域内の小川町では、「青山在来」大豆という在来大豆の生産が行われています。「青山在来」大豆は、糖質含有率の高さにより甘味が強く、晩成種のため開花期が遅く、害虫の被害を軽減できるなどの特徴を持っています。
 収穫された大豆は、枝豆・生豆はもとより、地域内にある加工・販売施設で「豆腐」、「おからドーナッツ」「醤油」等に加工され店頭で販売され、好評を得ています。

 現在植物油の原料はほとんど輸入に頼っている中で、なたねは国内の貴重な油糧作物となっています。アブラナ科の作物である為、連作障害が考えられますが、対策として「田畑輪換」方法があり、水田での転作用の作物としては問題なく作付けする事ができます。
 地域内で生産された「なたね」(キザキノナタネ)は、埼玉中央農協により、化学薬品を使わない昔ながらの方法(圧搾法)で「なたね油」として商品化されています。