は里山に暮らす生きものの貴重な生息空間にもなっています!

地域の自然や文化を守る知恵を今に伝える『森林公園沼まつり』

沼と沼を取り巻く斜面の雑木林、沼下の谷津田(やつだ)には、かつて里山で見られた動植物の多くが今なお暮らしています。沼は、米づくりだけでなく、生き物の貴重な生息空間にもなっています。

大雨や地震で大切な沼の堤がこわれたり、漏水したりしないように、古来、地域の人びとの手で沼普請 (ぬまぶしん)と呼ばれる補修作業が行われてきました。ちょうど田んぼで水を使わなくなる10月頃のことでした。その時の楽しみのひとつが「魚とり(捕り会)」。伝統漁具で捕った魚は貴重なタンパク源でした。

森林公園の周辺は関東一が多い地域です!

都内から電車で約1時間。国営武蔵丘陵森林公園のある滑川町周辺は、関東一沼が多い地域です。

これらの沼はすべて、お米をつくるための水の確保を目的に、人工的に造られた「ため池」です。

丘陵地の谷津(やつ)と呼ばれる地形を活かして造られた沼は、今日までずっと、地域の暮らしを支えてきました。


丘陸地の地形を活かして造られた沼《構造模式図》


沼を造ることで、水不足を克服しました

沼は里山の暮らしを守る生命線でした。

 森林公園のある滑川町には、大小二百もの沼があります。
沼は地形や気候をよく考えられて造られた、昔の人の知恵と工夫と努力のたまものです。
 おかげで、沼の水を使った米つくりが今日までずっと続けられています。



 (『なめがわ郷土かるた』平成六年発行)

古くは古墳時代から。約400年前にはがほぼ完成していました!

森林公園周辺における沼づくりは、古くは古墳時代に始まったと考えられ、遅くとも江戸時代の初め頃 (今から約400年前)には、「沼水による米づくりのシステム」が出来上がっていたようです。

616(推古天皇24)年の築造とされる日本最古の「狭山池(大阪狭山市)」で採用された大陸渡来の土木技術「敷葉(しきは)工法」が近隣の遺跡でも確認されていることなどから、当地の沼も狭山池とほぼ時を同じくして造られはじめた可能性が高いと考えられます。

稲作の伝来以来、森林公園周辺地域には渡来系の多くの先進的な文化の流入が確認されています。

は豊富な地域資源で造られました!

樹枝状の谷津(やつ)の一部をせき止めて造られた沼

高低差の関係で河川の水を利用することが難しい森林公園周辺の丘陵地では、谷津(やつ)と呼ばれる地形の一部を堤(=ダム)でせき止めることによって沼を造り、水不足を克服しました。

当地では、ため池のことを「沼」と呼んでいます。

堤は粘土。樋管(ひかん=取水のためのパイプ)は赤松など、沼は地域に豊富な資源で造られました。

谷津沼ランドスケープの特徴
 丘陵の細長い谷津の奥、斜面林と斜面林に挟まれた谷頭部に堤体を築造し、雨水や湧水を堰き止め、谷津沼が整備されてきました。下流側に続く谷津田の両脇の斜面林へと延びる緩やかな法面を畑や住宅用地として使用しています。
 当地域のため池は、農業用水として雨水を貯留するだけではなく、洪水調整機能及び土砂流出防止の役目も担ってきました。

 古社の集成としての『延喜式神名帳』(延長5年(927年))内に、全国の天神地祗総計3,132社が記載されています。その中に埼玉県内に関係ある古社は33座あり、その中の1社が当地域にある「伊古乃速御玉比売神社」となっています。
 この神社には雨乞いの儀式があり、谷津沼と神事を結びつける行事となっています。日照りの続く年は、二ノ宮山上で雨乞いが行われました。雨乞いの時は、村人が当社に集まり、生きた「やまかがし」を入れた長さ5メートルあまりの藁蛇を作ります。この蛇は、笛や太鼓の囃子で送り出され、伊古堰と新沼に入り揉まれ、次いで二ノ宮山頂に登り、山頂の松の御神木に縛りつけられます。蛇は、天に昇って竜となり雨を降らせると言い伝えられています。
 当地域には、雨乞いの儀式を執り行う「大雷」「雷電」と名の付く神社が多数あり、古いものでは1,000年前に創立されています。谷津沼と共に発展し、栄えた当地域の独自の文化が多数現存しています。